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昨晩の記憶がまるで無い。雷蔵が目を覚ますとそこは見知らぬ部屋の布団の上であった。
またやってしまった。
雷蔵は頭の中でそう認識して青褪めた。
ここ最近記憶が部分的に繋がらないことがある。数分間やあるいは数時間、どこで何をしていたかまるで思い出せない時間というのが一ヶ月程前から起こっていて、それは少しずつ頻度を増していた。これまでは、ふと我に返って先程まで何をしていたかと自問するのは自室の布団の中であったので雷蔵は断片的なこの記憶喪失を深刻に受け止めていなかった。しかし一晩丸々など、こんなに大きく記憶に穴が空いたのは初めてのことであった。
「まさか…?」
雷蔵は辺りを見渡して呆然と呟いた。
傍らにはくしゃくしゃと脱ぎ捨てた着物が丸まっている。雷蔵の着物である。部屋には雷蔵ひとりの姿しかなかったが、布団の中の雷蔵の身体は素っ裸であった。ざっと血の気が引いていくのを感じながら雷蔵は恐る恐る自分の身体を見回してみたのだが、有り体に予想していたような、要するに睦み事を連想させるような生臭い痕跡は全く無かった。
布団も清潔な気がする。
ひとまずにほっと息を吐いて、雷蔵は震える手で着物を引っ掴んで身なりを整え始めた。窓から見える空の色ではまだ夜が明けて間が無い筈だった。ここがどこだか知らないが早いうちに学園へ帰ったほうが良いに決まっている。慌てて仕度を整えていると気配で雷蔵の眼を覚ましたのを知ったのか、襖の奥から若い女の声が掛かった。
「もうお発ちになりますか」
お客さん、と襖の向こうの声が言ったのでそこで雷蔵はその部屋が宿の一室かなにかであることを知った。言われて見れば部屋は如何にも生活の匂いが無く、布団がひとつ敷かれているぐらいで、調度品なんかは殆ど置いてないのはつまりそういう為の部屋らしい。雷蔵はますます頭を抱えた。
慌てて懐から財布を手繰りながら襖を開くと、女中らしき娘が口に手を当てて笑っていた。
「いえ、お代はお連れの方からとうに頂きましたから」
昨晩誰か人と一緒だったらしい。当然の様に見に覚えが無い。誰といましたか、そんな風に訊ねようとして出来なかった。赤面する顔を隠すように俯いて、雷蔵は足早にその場を立ち去った。宿を出て辺りを見渡すとすぐにそこが見知った町の通りの中であることが分かった。明け方の冷たい空気の中を逃げるように雷蔵は走り帰った。
「最近、どうかしてる様だ」
どうも一晩正門の前で雷蔵の帰りを待っていたらしい三郎が朝帰りの雷蔵を咎める目つきで言った。
全くその通りだ。何か良くない病気かもしれない。気を違えている。雷蔵はいよいよ自分の状態に深刻に不安を抱いた。そのうち何か良くないことをしでかしそうな気がする。
学園に帰り着いた雷蔵はひと目三郎の姿を見るなり縋り付く様に抱きついた。襟元をきつく握り締める指が震えているのに気づいて三郎は途端心配そうな顔で雷蔵の背を抱いた。雷蔵はそこで何かに気づいたようではっと顔を上げた。
「そうだ、お前なら頼めるね三郎」
三郎が雷蔵の頼みを断らないことなど雷蔵には分かりきっていたので、雷蔵は既に安心した眼で三郎に言った。
「後生だから僕から目を離さないでくれ、昼も夜も側に居てくれ、それで僕が何処かに行きそうになったら必ず引き止めてくれ、殴ってくれて良い、柱に縛り付けてくれても良い、ずっと側に居てくれないだろうか」
悪くない提案であると雷蔵は確信していた。実際三郎は降って湧いた幸運みたいな雷蔵の言葉に戸惑いつつも喜色を滲ませている。鉢屋三郎は何よりも雷蔵を独占するのが好きな男である。
雷蔵はといえば自分の意識の無い間、側にいるのがこの男だということさえ分かっていれば飛び石のような記憶もそれで良かった。三郎が頷くのを見届けて雷蔵は安堵の息を吐いた。
でもなんでそんなことを?
三郎は夢心地の体で雷蔵に訊ねた。
「お前とだったら間違いがあっても構わないだろう」
それ以上に説明は無く三郎は良く分からないながらになんとなく充足を得たのだった。
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